山本七平「空気」の研究、耐えられない身体

ここしばらくの間、平穏な精神ではなかった。

どんよりした新潟の天候のせいなのか、職場の空気のせいなのか。

口唇ヘルペスができてしまっている。

身体は素直だ。

東京で働いていた頃から、何かあるとヘルペスができる。

当時は「過敏性腸症候群」という下痢の症状にも悩まされた。

会社へ向かうと突如お腹が痛くなる。

身体は正直だ。

私はこれらの症状が現れてから、ああ、精神的に疲れている、と自覚する。

”何か”に耐えている。

なんとも切ない性分だとつくづく思う。

もう、これは性分だと割り切っている。

しかしながら、性分で片付けてはならないとも思う。

悩みの根元はすべて「存在問題」

現在、ロシア、ウクライナで大変なことになっている。

私ががちゃがちゃ言っても解決はしない。

戦争なんて欲まみれでいいことなんてない。

《人間の悩みの根元はすべて「存在問題」である。》と、小室直樹の言葉にあった。

《戦争というものは国家間の戦いであり、国家間の「存在問題」でもある。》

《戦争をする、という行為は、国家の命題であって、個々人の命題ではない。》

各国家に所属する各個人は、個々人の命題ではないのに犠牲にもなる「存在問題」となってくる。


人間の悩みは「存在問題」に尽きる。

それがわかると私の悩み自体、くだらなく感じる。

にもかかわらず、私は私の「存在問題」にとらわれ、結果ヘルペスが現れる。

人間とはそういう生き物なのだろうか。


「空気」に耐えられない身体

ここ数日、山本七平の『「空気」の研究』を読んでいた。

身体の症状は、麻痺した日常に水を差してくれる症状である気がしてきた。

山本七平『「空気」の研究』文春文庫(2018)


賃貸業界で働いている私は、繁忙期最中、今日は特にピークの忙しさであった。

お客という存在は一過性の存在なので、その時々の状況で対応できる。

しかしながら「存在問題」とは極めて近しい相手、いつも接する人との間で起こってくるものだ。

友達や恋人という単位から家族、職場、近隣、地域、国、周辺諸国。

向こう三軒両隣。

人と人とが争う時というものは、一時的なことではなく、蓄積された”何か”であるように思う。

近しいがゆえ、存在しているがゆえに問題が生じてしまう現象。

虚構世界の、”何か”に醸成されてしまった空気の中で生きている。

不平不満、ああ、言いたい、書きたいさ!

手ごわい空気に耐えられず身体が泣く。

この本を手に取る私の心理は、この異常な空気を把握したい、解決したいという思いからであろう。

そして私の精神が落ち着くことを期待しているからだろう。

《「空気」これは確かに、ある状態を示すまことに的確な表現である。人は確かに、空気に拘束されてる。従って、何かわけのわからぬ絶対的拘束は「精神的な空気」であろう。》



私は勝手に、自然発生的に、「空気」に拘束されている。

なぜなんだろう、といつも思う。

その「空気」は、どのようにして醸成されているのだろう。

わからない。


拘束された「空気」から脱却せねば

臨在感的把握の絶対化、感情移入の絶対化、絶対化することで対象に支配されていく。

自分の中に絶対という概念を作れば、おのずと対立し、それ自体に支配される。

善悪とか、正義とか、二極化するとろくでもない現象が発生する。

「対立概念で対象を把握すること」を排除しなくては。

この本は、1977年に出版されている。

45年経とうとする現在も、変わらない日本人のあり方に、驚くというよりも納得してしまった。

納得したにもかかわらず、どうしたらいいのやら、、、と、悩む日々が続く。



空気にのまれてしまわないよう、水を差す勇気が必要だ。

身体に症状が現れる前に、《”空気”から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」になること。》

拘束を断ち切っていく勇気を持たねば、精神は解放されない。

空気に支配されるために私は生きていない!



ああ、、とはいえ空気だから掴みようがない…。

まずは、空気のせいにしないことが懸命である。



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