ここしばらくの間、平穏な精神ではなかった。
どんよりした新潟の天候のせいなのか、職場の空気のせいなのか。
口唇ヘルペスができてしまっている。
身体は素直だ。
東京で働いていた頃から、何かあるとヘルペスができる。
当時は「過敏性腸症候群」という下痢の症状にも悩まされた。
会社へ向かうと突如お腹が痛くなる。
身体は正直だ。
私はこれらの症状が現れてから、ああ、精神的に疲れている、と自覚する。
”何か”に耐えている。
なんとも切ない性分だとつくづく思う。
もう、これは性分だと割り切っている。
しかしながら、性分で片付けてはならないとも思う。
悩みの根元はすべて「存在問題」
現在、ロシア、ウクライナで大変なことになっている。
私ががちゃがちゃ言っても解決はしない。
戦争なんて欲まみれでいいことなんてない。
《人間の悩みの根元はすべて「存在問題」である。》と、小室直樹の言葉にあった。
《戦争というものは国家間の戦いであり、国家間の「存在問題」でもある。》
《戦争をする、という行為は、国家の命題であって、個々人の命題ではない。》
各国家に所属する各個人は、個々人の命題ではないのに犠牲にもなる「存在問題」となってくる。
人間の悩みは「存在問題」に尽きる。
それがわかると私の悩み自体、くだらなく感じる。
にもかかわらず、私は私の「存在問題」にとらわれ、結果ヘルペスが現れる。
人間とはそういう生き物なのだろうか。
「空気」に耐えられない身体
ここ数日、山本七平の『「空気」の研究』を読んでいた。
身体の症状は、麻痺した日常に水を差してくれる症状である気がしてきた。
賃貸業界で働いている私は、繁忙期最中、今日は特にピークの忙しさであった。
お客という存在は一過性の存在なので、その時々の状況で対応できる。
しかしながら「存在問題」とは極めて近しい相手、いつも接する人との間で起こってくるものだ。
友達や恋人という単位から家族、職場、近隣、地域、国、周辺諸国。
向こう三軒両隣。
人と人とが争う時というものは、一時的なことではなく、蓄積された”何か”であるように思う。
近しいがゆえ、存在しているがゆえに問題が生じてしまう現象。
虚構世界の、”何か”に醸成されてしまった空気の中で生きている。
不平不満、ああ、言いたい、書きたいさ!
手ごわい空気に耐えられず身体が泣く。
この本を手に取る私の心理は、この異常な空気を把握したい、解決したいという思いからであろう。
そして私の精神が落ち着くことを期待しているからだろう。
《「空気」これは確かに、ある状態を示すまことに的確な表現である。人は確かに、空気に拘束されてる。従って、何かわけのわからぬ絶対的拘束は「精神的な空気」であろう。》
私は勝手に、自然発生的に、「空気」に拘束されている。
なぜなんだろう、といつも思う。
その「空気」は、どのようにして醸成されているのだろう。
わからない。
拘束された「空気」から脱却せねば
臨在感的把握の絶対化、感情移入の絶対化、絶対化することで対象に支配されていく。
自分の中に絶対という概念を作れば、おのずと対立し、それ自体に支配される。
善悪とか、正義とか、二極化するとろくでもない現象が発生する。
「対立概念で対象を把握すること」を排除しなくては。
この本は、1977年に出版されている。
45年経とうとする現在も、変わらない日本人のあり方に、驚くというよりも納得してしまった。
納得したにもかかわらず、どうしたらいいのやら、、、と、悩む日々が続く。
空気にのまれてしまわないよう、水を差す勇気が必要だ。
身体に症状が現れる前に、《”空気”から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」になること。》
拘束を断ち切っていく勇気を持たねば、精神は解放されない。
空気に支配されるために私は生きていない!
ああ、、とはいえ空気だから掴みようがない…。
まずは、空気のせいにしないことが懸命である。
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