どんな男がタイプ?と聞かれれば、「体にボルトが入っている人」と答えている。
大概は優しい人とか、面白い人とか、抽象的なつまらない回答であると思う。
否定するつもりはなく、もっともだと思うし、そもそも抽象的な質問だから抽象的に答えるのは正しいのかもしれない。かと言って、〇〇(俳優名など)みたいな人と答えるのは現実味がまるでなく幼稚だ。くだらない話題を振ってくる相手もどうかと思うが、その場の空気を乱すつもりは毛頭ないので、適当に、でも、強いて言えば「体にボルトが入っている人」なのである。
先日、私は車のドアに指を挟んでしまい、指が欠損するのではないかと思うほどのケガに襲われた。誤解して欲しくはないが、骨が折れたら手術を受けてボルトを打ち込み、次の戦いに備えてリハビリをする姿を逞しく感じる。生身の体と無機質の融合は、機械のごとく強靭で、異物と共存する肉体は、サイボーグのように存在感が際立ってくるのだ。融合すること自体に驚きと感動があらわれ、それは私にとって美として映るようである。
ミロのヴィーナス、欠落の美
対照的に欠落の美もある。これは生身の人間ではなく彫刻ではあるのだが、清岡貞行『ミロのヴィーナス』の解釈がある。肉体の一部が欠落することによってミロのヴィーナスは美が増している。《失われていること以上に美しさを生み出すことができないのである。》それもわかる。
手というものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか?(略)それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。(略)機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、(略)ミロのヴィーナスの失われた両腕は、不思議なアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。
出典元:清岡貞行『手の変幻』講談社文芸文庫「ミロのヴィーナス」より
ミロのヴィーナスは豊満な体をもった「完全」な女神であるからこそ、まず既に美があった。そして、失われた両腕であるからこそ両腕を感じ取れるのであり、「不完全」であるがゆえに、見る者の想像力で美を見出し完成する。
この彫刻が男性であれば感動しないだろう。であるから、同じような感覚を持っていえば、「体にボルトが入っている人」とはその意味で、ボルトが入っている肉体と想像することによって、肉体と無機質な機械が融合、補強することで逞しさがあらわれてくるように思うのである。
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