マイク・ケリー<Mike Kelley>ーー去勢された社会で生きる

マイク・ケリーの魅力は「狂気」である。気取った世界をぶっ壊してくれた。

ソニックユース「Dirty」襲ってくる音とサブカルチャー

私がマイク・ケリーを知ったのはソニックユースの『ダーティ』のジャケットだった。ソニックユースに影響を受けた人は多いだろう。私もその一人です。

美術学校特有のあの感覚の鋭さは、ニューヨークという環境と当人の意識がない限り、その感覚は鋭くならない。まわりがそうだからだ。彼ら自身もおそらくかっこいい何かになりたかった。その感覚はさまざまな外部から触発され、それを嗅ぎ取るセンサーが鋭敏であったことが、ソニックユースの武器でもある。個人的によく聴いたアルバム3点。

ゲルハルト・リヒターの蝋燭、『Daydream Nation』1988年
レイモンド・ペティボン「ムーアズ殺人事件」の二人を起用したイラスト、『GOO』 1990年
マイク・ケリー『Ahh…youth!』からの『Dirty』1992年


『Dirty』は、LAでキム・ゴードンがマイク・ケリーと親しかった縁で、アートワークに関わる。しかしヨーロッパ共通の初期プレス分では、”人形に襲われているカップルの首から上”が写っているものだったそうで、(現物を私は確認できないが)不快のクレームがついたらしい。しかしながら、その内在する暴力的なものは音の衝撃とあいまって、ソニックユースをソニックユースたらしめる価値を獲得し、同時にマイク・ケリーの成果となる。

拭い去れない階級意識とコンプレックス

マイク・ケリーは1954年ミシガン州デトロイトに生まれ、「労働者階級ブルーカラー」から逃れたい一心でアンアーバーのミシガン大学に行く。期待したアンアーバーは経済的に崩壊し、静かで保守的な都市となっていた。刺激のない中で、パンク以前の前パンク的なバンド「デストロイ・オール・モンスターズ」として音楽活動をはじめる。日本の怪獣映画「怪獣総進撃」(1968年)の英題をバンド名とした。

■狂気な参考映像:https://www.youtube.com/watch?v=WD-PvgX1mJA

《労働者階級の若者は、音楽を通してカウンター・カルチャーやいろいろな新しい考え方を知るんだ。哲学や政治や芸術に関心をもつようになった。》私もそうだった。

その後、アンアーバーを離れLAに移り住む。アーティストとしての活動にちょっと兆しが見えてもその場はハイカルチャーのニューヨークでなくLA。世に出るにはニューヨークが典型だっただろうに、そこへは行かない。自らのコンプレックスと不完全さを確立させるかのようにLAを選んだと私には映る。

それは「労働者階級」出身を根にもちながらも、でもそやはりそれが本質的な部分でもある。選べない環境のコンプレックスがあったにせよ結局は自分へと回帰し、憂さ晴らしではないけれど、欲望を対象に、その環境下で自身の記憶と欲望に向き合うしかない。「音楽を通してカウンター・カルチャーやいろいろな新しい考え方を知った」ことが基盤となっているからだ。とはいえ、ロスのアートカレッジ時代にキム・ゴードンと出会ったことは運命的であろう。

《結局自分自身を反映するものからは逃れられない。》
《もっと自分の歴史を扱っていこうと考えた。》

フェティッシュ化するぬいぐるみ

彼はぬいぐるみアーティストといわれることを嫌ったが、とはいえその表現で注目されてしまったことは拭えず、捨てられたぬいぐるみのノスタルジーな感覚は、生まれ育った環境と記憶を物語っていると思う。

《あきらかに自分の階級の素材だからね。》たしかにそう、素材は階級をあらわす。その価値は人が何千時間かけられているかで決まる。それはシルクみたいな高級素材と化繊とで、違うことは明らかだ。

MIKE KELLEY FOUNDATION FOR THE ARTS

『More Love Hours Than Can Ever Be Repaid and The Wages of Sin
(どれほどのお返しにもかなわない愛の時間と罪の賃金) 1987年

私はこの作品が結構好きなのだが、彼はぬいぐるみ自体に意味をもたせたかったわけではなく、去勢される中で確立していく自我と、否応にも資本主義社会(消費社会)に関わらざるをえない現実を、捨てられたぬいぐるみで再構築している。

《資本主義が美術作品に対して働かせている影響から逃れることができるんじゃないかと考えた》しかし、《結局どんなに頑張っても、その労働時間に対し価値をつけ、それに見合うお返しをすることはできないということを示している。つまり、これが最も極端な商品のフェティシズムだということさ。》うん、そうだよね、と私は腑に落ちた。

ほんらいフェティシズムという言葉は、十八世紀の原始宗教に関する研究から広がったものだ。フェティッシュとは「未開人」があがめる「神の宿った呪物」を指している。十九世紀になると、今度はマルクスがこの言葉を用いた。資本主義社会において、あらゆる物が、交換可能な使用価値を帯びる。そのような状況下でこそ、ただの紙切れにすぎない紙幣にも、何か一定の価値が備わっているかのような価値が生まれてくる。この感覚が「フェティシズム」なのだ。(P.124)

引用元:斎藤 環『生き延びるためのラカン』ちくま文庫より


私にとってぬいぐるみは幼少期なくてはならない存在だった。耳の長いダックスフンドみたいな犬のぬいぐるみは、不在の母の代わりでもあった。目と口と認識できる器官があって、セーターや毛布のような手触りを感じ取れれば安心できた。

そのぬいぐるみは交換できない価値があったし、何かが宿った存在でもあった。が、それに値するような物は、消費すればするほど、なかなか現れてこない。取り戻したくても取り戻せないこの感覚と去勢された世界にいる不安をこの作品は物語っている。

「神の宿った呪物」になるぬいぐるみは、人それぞれの個人的な体験の「凝縮」である。アートとして提示されると、作品を通して作家を見ようとしたり、意味を持たせようとしたり、価値を見出そうとする。その欲求は制御できない。つまり、アートもフェティシズムである。

去勢された社会で、去勢されないように生きること

《資本主義においては、すべてのものが商品化されて、すべての意味が抜き取られてしまう。》《ジャスパー・ジョーンズーーー結局、こうした去勢されてしまったような天才は、その人自体にはまったく価値がないんだ。》

ファルスは、(略)欲望の究極の対象になっていく。言い換えるなら、去勢は欲望の対象物をファルス的なものにしてしまう。(略)ラカンはこう言っている。「去勢の受け入れは欠如をもたらす。欲望は、この欠如によって確立される」(p.80)

欲求は満足することが出来る。でも、欲望は、決して満足しない。そして人間の活動は、そのほとんどがこうした「満たされない欲望」のうえに成立している。(p.23-24)

フロイトが言ったように、それは「満たされない欲望を持ちたいという欲望」なんだ。(p.30)

引用元:斎藤 環『生き延びるためのラカン』ちくま文庫より


《僕は去勢のシンボルになりたいと思って、ずっと頑張ってきたんだから。男性は世界であまりにも変なことをたくさんしているから、脱・男性というのを自分のなかの目標にしていたんだ。》

ファルスを傷つけるわけではないが、去勢するかのようにファルスを表現し、虚脱感と、言葉を持たない空虚なものを表現する。極めて個人的な体験や幻想は、とりわけ男性にとって逃れられないことなのかもしれない。そこが私にはいまひとつつかめなかったのだけれども、インタビュアの市原研太郎が評する、「ただひとり去勢されなかったアーティスト」とは言い得てる、と思った。

ポストモダン全盛期の中、去勢された芸術家は好評を得たものを作り続けるか、商品化され続けるか、自己の世界へ行くかだ。その意味でマイク・ケリーは去勢されなかった。


2012年1月31日、マイク・ケリーは自殺した。

2018年、SupremeでオマージュとしてダーティのTシャツ等が販売された。象徴となったアイコンは、《すべてのものが商品化されて、すべての意味が抜き取られてしまう。》マイク・ケリーの放った言葉通りに展開している。私たちは去勢された社会で生きている。

アートと消費社会のこのサイクルが、私は正直飽きている。「物質的に満たされても、心が満たされない」「満たされない欲望を持ちたいという欲望」はどこへ向かっているのだろう。


※参考資料&引用文:『美術手帖』Vol.49 1997年 インタビュー:市原研太郎(美術評論家)より
※画像出典元:mikekelley公式ウェブサイト

斎藤 環『生き延びるためのラカン』筑摩書房 (2012/2/1)

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