円地文子『黝い紫陽花』と母への思い

紫陽花を見ると、やっぱりどうしてか円地文子の『あおぐろい紫陽花』を思い出す。
実家の庭には三株の紫陽花が咲く。ガクアジサイとハイドランジア。
紫陽花を見ると、母の卑しい部分を見ようとする自分がいる。

毒を持つ紫陽花

紫陽花は毒を持つ。原種は日本に自生する落葉低木の一種だそうだ。
《毒性成分は、未だ明らかではない。古くから、アジサイには青酸配糖体が含まれているとされ、半ば定説のようになっている。》(引用元:自然毒のリスクプロファイル

実家の紫陽花は七月入ってから徐々に咲き始め、冬囲いを始める十一月過ぎまで濃淡に色を変えながら咲いていく。また、育った土壌で色が変わるとされ、酸性の土壌だと青色系となり、中性〜アルカリ性だと赤色系となる。故に「七変化」という異名を持つ。

円地文子『黝い紫陽花』は、見たくない母の姿が描かれているように感じていた。母が毒なのか、私が毒なのか、女が毒なのか。

母は今年の終わった紫陽花を家中のあちこちに飾った。色素が抜けて褪せた青みの紫陽花はこれはこれで綺麗だと感じる。そこに紫陽花がある限り『黝い紫陽花』がたびたび現れてくることに私はもう慣れている。でも、今年の紫陽花はどこか優しい印象を受けるのだった。

黝い紫陽花が現れる

だからなのか二十数年ぶりに『黝い紫陽花』を読んでみようと思った。『女坂』は苦しくなってしまうし、『ひもじい月日』は同じようにひもじい気分になってしまう。時代背景は違えど女の立ち位置が描写され、何か大きな物体となって迫ってくるようなのだ。逃げたいのに逃げれない。切ない気持ちになるのである。であるが故に円地文子の小説には力強さがあるのだが。

だが、読み進めると当時とは異なる印象を受けていく。というより私が変わったことに気づく。

<あらすじ>
戦時中、裕福な上流階級に育った「私」は、素朴な家庭を作りたいと思っていた。次男を病気で亡くし、一郎だけとなった息子を大切に育てる。近所の友達(欣二)と三人で畑仕事をし、虚飾のない愛情に溢れた日々を送る。しかし、欣二が軍兵に動員され戦地へ向かうこととなり、次は一郎の番ではないかと倒錯していく。そんな中、親戚の青年らが兵役を免れ、戦地に行かなくてもいい状況を目の当たりにしてしまう。一郎を戦地に送らせたくない「私」は便宜を図ろうとするが…。

『黝い紫陽花』は妻、母、女、人間の姿を、紫陽花の変化する色になぞらえて描いているが、題材は「戦争」である。応召され戦地に送られる息子への母の思いというよりも、自分自身のエゴとの戦いを戦争と重ねている。

読み返せばこうだ、《私は自分達の長い夫婦生活がなんと嘘だらけのまやかしだったかに、今更驚かされずにはいられない。》これを夫婦でなく日本と捉えるとわかりやすい。《この誰にも話すことの出来ない悩みを私はもう随分長い間はずかしいやまいのように自分の中に匿して来たが、》と続く。

私は疲れてきた。どこまで歩いても答えは出て来ない。(略)都会の空を絶えず軽くゆすっている騒音も皆私の悩んでいることを悩んでいるようでもあり、まるで無関心でもあるようだ。話す相手もない。眠る場所もない孤独に私の心は渇いていた。大きい神社の鳥居を見つけて私はずんずんそこへ入って行った。習慣的にちょっと頭を下げたが、神に祈る気にはならない。私の利己的な願いに答える神があれば神は何と低俗なものであろう。

出典元:円地文子『妖・花食い姥』講談社文芸文庫 「黝い紫陽花」P,50

とはいえ、《人間に階級をつけないという私の持説》ないし《虚飾のない生活というのが私の家庭のモットーだった》という描写から、主人公の利己的な思いが窺える。

まやかしの世界

そこに虚飾の世界ではない愛情に溢れた世界である一郎と欣二が登場する。完璧な一郎への溺愛と、同じように彼を慕う欣二が自分と重なっていく。自分が望んでいた姿がそこにはあったはずなのに。

一郎は人が狂人となることを知っていた。戦争という暴力を憎み、手段をまわして兵を逃れる友達がまわりにいても、

彼らの父親や親類は普段国家の恩寵をうけている癖に、こういう非常な時には一般の国民の犠牲の上に立って自分の肉親を平気で庇っている。…僕はそういう階級を眼近に見るほど、自分だけは素朴な国民の一人として、与えられるものを自然に受け取ろうと思っていた。それに耐えて行く中で僕自身の答えを探り出そうと決心していた。

出典元:同書「黝い紫陽花」P,61

理不尽な世界であっても、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」と念仏のように唱えれば救われると自分で自分を洗脳していく。そんな詩を彼らに教えた「私」は、《私の人生を持とうとした善意は、こんな手ひどい報復を受けるほど滑稽な思い上りだったのだろうか。》と「私」をまる裸にし、便宜を図ったことで崩壊していく。

結末が「死」で終わるのは、「戦争という暴力」から生まれる有り様であり、エゴに嫌気がさした「叫び」である。何かがトリガーとなって脳がおかしくなってしまうのだとすれば、盲目的に何かを信じる方が救いになることもあるだろう。しかしながらそれも「まやかし」であり、戦争は「雨ニモマケズ」の「サウイフモノニワタシハナリタイ」という純粋で素朴な願望を根こそぎ奪ってしまうものだった。

母とは

当時私が感じた母をいぶかる気持ちは、《母とはそういう愚かさの代名詞ではないだろうか。》 で、すとんと落ちた。母親が子供の死が来るのをよろこんで笑顔で見送る《素朴な国民の一人として》であったとしてもそれはその世界では有効なのだろう。だが、それもまた「まやかし」である。国民総動員の戦時下であればなおのこと、この「まやかし」に国民は気づかず、失うことで一体なんだったのかと病のように取り憑き、卑しさと喪失と絶望が宿ってしまう。再読してみるとそんなふうに問うてくる。毒と七変化の紫陽花を通して、人間の有り様をじっくり観察してしまう小説であった。

紫陽花を見るたびに母のいやな部分を見ようとしていた私は、やっぱり母が作る零余子むかごご飯はとびきり美味しいし褪せた紫陽花をいける母の姿を愛おしいと感じる。それが喜びであると思うのだった。


※「黝い」は「くろ・い」とも読むが、「あおぐろ・い」とどちらが著者の意図なのか、本書はルビがふっていないのでわからない。「くろい」はそのままの印象を受けるのだが、人の気持ちが黒くなってしまう移り変わりと紫陽花の色の変化を思うと、私は「あおぐろい」と読んでいる。

円地文子『妖・花食い姥』講談社(1997)

■青空文庫 宮澤賢治『雨ニモマケズ』

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